unrecognizable ethnic child with yorkshire terrier on city stairs

陽の差す時こそ雨を想え

傷はいつか癒えるが、痛かったことまでは忘れられないし、忘れたくないと思う。そんなことをずっと何年も考えている。

別に誰かに傷つけられたとして、その誰かを未来永劫憎み続けるという意味じゃない。「自分は確かに痛かった」ことを忘れないことは、自分の痛みをなかったことにしないことでもある。そういう意味。

僕はグリーフケアの領域で、「喪失は果たして『乗り越える』ものなのか?」という問いに触れた。

何年も前、ちょうど心療内科に通い始めた頃、犬を亡くした。まさしく三日三晩泣き通し、精神状態も危機的なレベルにまでなり、主治医やカウンセラーと何度も何度もやり取りをした。

そのさなかだろうか。当時の自分が綴った言葉を見つけた。

追想の彼方に 埋めてなるものか 愛すべきこの痛みを 消してたまるか

喪ったことで僕は深い傷を負った。世界は大きく変わった。だがその記憶を消してしまうことは、僕のつらさを殺すことでもあり、犬の生きた痕跡を抹消することにもなる。だから僕は傷が癒えても、痛みを感じなくなっても、「痛かった」ことまでは忘れたくない。なかったことにしたくない。

楽しく笑っていても、喪失の残り香をまとっている。喪失を含めて自分史は成っている。喪ってよかったとか、必要な喪失だったとか、そんなことは口が裂けても言いたくないが、喪ったからこその新しい現実が立ち現れることもある。それを知った。

悲しみとともに在ること。喪失を抱いて行くこと。傷が癒えても痛かったことを忘れないこと。

痛みやつらさを思い出として昇華することと、記憶し続けること、共に在り続けることはきっと矛盾しない。傷跡にしか語れない言葉もあるはずだ。

ふと忘れそうになることがある。忘れ去って思い出にすら残らなくなることが恐ろしい。だから楽しいときこそ、つらかったときのことを思いたい。

「陽の差す時こそ雨を想え」は、そういう思いを込めた自分だけの警句。