この夜のこと

深夜に目が覚める。
家中の電気は点けっぱなしで、どうやらソファで寝落ちてしまったらしい。やけ食いしたスナック菓子のせいで吐き気がするし、水分不足のせいか頭痛も酷い。

妻は体調不良で、娘と一緒に近所の実家に泊まっている。熱があるようだが、原因は扁桃腺炎らしい。ひとまず、原因については安心した。

独りの家には音がない。
風の音も、この街ではひっきりなしに響く救急車のサイレンの音も、今はない。完全な無音。まるで時間が静止したような感じがする。ありきたりに言えば、世界に自分一人になったような感覚か。

幸せな人生とは、自分が孤独であることをなるべく感じないで済む人生だとは、誰の言葉だっただろうか。もちろん孤独であることは、一般に言われるほど悪いことじゃない。本当につらいのは孤独ではなく孤立なのだから。

それでも静止した夜の寂しさには抗いがたい。
だから人は炎を絶やさないようにするのだろう。
存在を脅かす影が世界中を覆い尽くす夜への多少の抵抗として、明かりを灯すのだろう。そうであるなら、火に惹かれて集まりやがて焼かれる虫のことを、一体誰が笑えるのか。
何も変わらない。

明かりに集まるのは人とて変わらない。独りであることを忘れるために、人は火に集まる。虫の行動が光に対する正の走性なら、人間のそれはきっと、寂寞に対する負の走性だ。独りであることをなるべくなら忘れていたい。誰かの存在をできれば感じていたい。そうやって人は火に、光に、希望に群れようとする。
人とて何も変わらない。

ふと思い出す。
夕食どき、父親に何かの罰としてガレージに閉じ込められた記憶。鍵のかけられたシャッターを必死に叩き続け、やがて諦めて座り込む。オイルの匂いと砂利の感触。今はもうないはずなのに、この体が覚えている。

真っ暗闇にいたのは自分自身と、諦めと罪悪感、それから恐怖。
そいつらと一緒に、ただ光を待っていた。

そんなことをよく、何の前触れもなく思い出す。医学的に言えばフラッシュバックなのだろう。

わたしは今ここにいるが、同時に今ここにはいない。
静止した夜という、無のテクスチャの上に立つことで、わたしは「今ここ」から遊離する。
今はもうない家のガレージに。あるいは白い壁で覆われた寮の部屋に。もしくは存在を否定された会議室に。

タバコを吸って、薬を飲む。
すぐに効くわけではないが、飲んだという事実がせめてもの安心になると知っている。
時間は3時近いようだが、今がいつなのか、わからない。実感がない。

「今ここ」から遊離した意識は、舵を失った船のように時空間をさまよう。
人間には基準点が必要だ。こころを「今ここ」に繋ぎ止める楔。
「今ここ」と「わたし」を接続し、同定するための絶対座標。

それが作れることを知っている。
受けた傷と同様、言葉と記憶がその役割を担うことを知っている。

だから書く。言葉と記憶を以て、己を脅かす影と相対するために。
誰からも見られなくても、評価されなくても、選ばれなくても、ないものになっても。
価値などいらない。意味などいらない。
これはわたしだけの言葉なのだから。

そういうことを考えながら、ずっと朝を待っている。