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何も成し得ない自分との対話。何かを成す自分へ託すもの

まとまりのない文章。なんの価値も提供し得ない個人的文章。書くことを生業とする者として、それはだめだろうと思いながらも、今はそんなことしかできない。

それは、どうして?

今自分に何が起こっているのか。そして状況を引き起こしているのは何か。状況自体は簡単に説明できる。言葉が出てこない。思考を整理できない。

それは、どうして?

きっとあまりに多くの声を取り込みすぎた。そのすべてが自分の内なる声として頭の中に陣取って、罵詈雑言を浴びせてくる。そいつらが邪魔をするから、本当の自分の声がどれなのかわからない。自分の言葉を書くことができなくなった。

PCのカーソルが文末で無慈悲に点滅している。まるで何かのカウントダウンのように。これが尽きたらお前に価値はなくなると脅されているように思える。

それは、どうして?

行動する以上は誰かを利するのが好ましい、というのはなんとなく風潮としてあるのか、それともただの主観なのか。とにかくそういう強迫観念というか、焦燥のような考えが常に頭の片隅にある。

そういう「価値を提供せよ」という能動性の要求が、たまらなく息苦しい。価値創出を半ば義務のように押し付けられているような感覚。もしかしたらそれはただの思いこみなのかもしれないし、他人と比較してそう考えているのかもしれないし、あるいはこれこそが使命感というやつなのかもしれない。

わからない。わからないが、内在化された他者の声とともに、この観念は書くことを阻害している。そりゃお前、気負いすぎだよ。そんな言葉をかけてくれる人がいる。そうだな。そうかもしれない。

それでもなお、カーソルの点滅と空白は自分を脅し続ける。

それは、どうして?

書くことを仕事にしている以上、あらゆる執筆行為は価値創出になりえるし、自己研鑽にもなりえる。けれどもそれは「暇と退屈の倫理学」で示されたような、「労働に組み込まれた休暇」のようにも思える。働くための休み。仕事としての執筆のためのプライベートな執筆。

そんなことを考えているから、お前はいつまでもうだつの上がらない末端なんだと、そう言われれば反論はできない。しかしそうおっしゃられましても、である。今の自分に必要なのは、まっとうな論理思考ができるまで回復することだ。研鑽はその後か道すがらか、とにかく今は考えない。

ライターを名乗る以上は書くべき。ライターを名乗る以上は人より優れたものを書くべき。事実、自分に対してはそう思う。いつか乗り越えたはずの白黒思考の残滓もまた、自分を追い詰めるもののひとつになっている。

だいぶ整理できた。少しだけすっきりもした。ならば自己対話の設問として、次に続くのは「では、どうする?」なのだろう。

身も蓋もないことを言ってしまえば、「休む」か「気晴らしをする」になる。

休むことは必ずしも「静止」を意味しない。そう思う。身動き一つしないことを「休み」というなら、それは眠ることだけになってしまう。だからおそらく、先に述べた「休む」と「気晴らしをする」は、少なくともこの文脈では同じものではないだろうか。気晴らし。そう、気晴らしだ。読みかけの「暇と退屈の倫理学」風に言えば、今の自分には「暇」を過ごす方法論、日常の虚無を彩るバラが必要だ。

ここに至って改めて自分に問うてみる。自分を苦しめるものはわかった。それに抗う術らしきものもわかった。

では、どうする?

今やっていて楽しいことはなんだろう。というより、つらくないことはなんだろう。それはたぶん、「何かをつくる」ことだ。

結局それって「書く」なんじゃない?いやいや、そうではない。料理だってそうだし、今はご無沙汰だけど曲だってそうだ。娘のために苦手な折り紙でもしてみてもいい。なにか、とにかくなにかを外界に出力すること。余裕があるからできるのか、やるから余裕が生まれるのか、その順序を考えていても仕方ない。それは思考を巻き戻してしまうことになる。

考えない。

自分の感じたことをなにかの形で表現する。世界に対して自分の感覚や感性を開く。それが今の自分にできることだ。

では、やろう。