diary_no_title:1025

昔よりずいぶんと言葉の幅が狭くなったな、と思う。思えばもうずっと自分の過去だとか傷だとか病気だとか、そういうものごとを媒介にしてしか、何かを表現できていないように思えてならない。それはつまり、究極の個人的体験である「病気」や「過去」を参照元にしておけば、否定的な評価もされないし、間違うこともないという無意識の打算なんだろう。

それでもたぶん進展なのだ。そもそもが言葉にすら出来なかったこれまでに比べれば。だから今、何かを言う時に当事者性に依拠するのは、これまでできなかった分と考えれば別に悪くはないんだろうなと思う。

ただそれでも一定の社会性のある分野で仕事をしている以上、世間のものごとについて何か言いたい気持ちは、どうしてもある。だが言えない。それはおそらくだが、世界に対して何らの信頼や期待も抱いていないから、というのが理由のひとつ。

なぜ世界に信頼や期待が抱けないかといえば、それは過去の傷とか、そういうものに由来するんだろうけど。今その話はあんまりしたくない。

もうひとつはそもそも、社会に対してなにか言えるほどの余裕が恒常的に欠けているということ。自分のことで精一杯だということ。働くこととか暮らすこととかが、今はそれくらいに切羽詰まっている。

それでも予感がある。何かが芽吹くことを予期している。結局巨視的な変化ってのは表層をなぞっているだけのことが多くて、本当に大切な変化は微視的なスケールで起こってるもんだ。発酵とか、熟成とか、そういうものと一緒で。

発酵になぞらえて言えば、今こうやって書く言葉はさながら吹き出すガスのよう。タンクのなかでぷつぷつと泡になって出てくるガス。微生物が生きて活動している証拠。だからきっと自己の内面では構造の変化が進んでいるんだろう。

いつかまとめたいけど、自分の「病いの語り」もずいぶんと変化している。(クラインマンはこれから読む)

だから醸されているんです、私はちゃんと。ぬるく待っておくれ。そのうち美味しくなるだろうよ。