時の積層

時の積層

「あなたの好きなものは?」と問われると、答えに窮する。
それは好きなものが多すぎて絞れないからではなく、何も思いつかないからだ。

旧友たちから見れば、僕は音楽やアニメ、映画や本が好きな人間だったかもしれない。けれど自分でそれらを今あらためて見直したとき、すべてが嘘くさく思える。好きだったというより、ただそういうものに親しむ文脈とか場にいただけなんじゃないか。

症状によってあらゆるものから興味関心が薄れている今、それでも好きだといえるものこそ、きっと「僕自身」が本当に好きなものなのだろう。そういう話をカウンセラーとした。

「好き」から少し言葉と視点を変えると、それは見えてきた。つまり「触れていて安らぐもの、苦痛ではないもの」。

僕は自然の中にいるときが安らぐ。人の気配がなく、名も知らぬ鳥の声や川の流れる音、風で木の葉が揺れる音に包まれている、人間の存在が限りなく希薄な場所。家の近所には森のような公園や草花の茂る川沿いの緑道が多くある。長い距離を歩けるようになった子どもとも、そういう場所にはよく行くようになった。幼少期から現在に至るまで、人間から多くの傷を受けた僕ならではの避難行動か、それとも生来の感性かはわからない。だけど、そういう自然に溢れる場所が「好き」だ。

また他方で知識を得るのが「好き」だ。だから本を読む。仕事柄慎重に選びはするが、Webの記事も読む。ジャンルは特に問わない。宇宙物理学から料理の本まで、これまで雑多に読んできた。図書館できっと何年も誰も手にとっていないような本に惹かれていたのを思い出す。

自然と知識。共通するのは「時間」だ。どちらも過去から現在まで堆積した時間や歴史が織りなすものにほかならない。

何年か前、ヨーロッパに旅行に行ったときのこと。僕は特定の信仰を持たないが、それでもバチカンのサン・ピエトロ大聖堂や、モン・サン・ミッシェルの小さな礼拝堂には畏敬の念を覚えた。それは信仰心によるものではない。ここで長きに渡って積もった人々の祈りや願い、営みに対する敬意からくるものだ。

堆積した時間。時の地層。そういうものに自分のペースで触れることこそ、僕の「好きなこと」の本質なのだろう。