時間と人が紡ぐ生命賛歌。精神科医の自伝『人は、人を浴びて人になる』

去る8月21日に一冊の本が出版されました。タイトルは「人は、人を浴びて人になる」。著者は児童精神科医である夏苅郁子氏。自身も心に多くの傷を負った著者が、人とのふれあいの中で生きる選択をしていく道筋が柔らかなタッチの文体で綴られています。


当事者・家族・医師の3つの立場を持つ著者の半生が綴られたエッセイ

著者について

本書には著者である夏苅医師の過酷な幼少期と、そこから少しずつ生きることに向かって行く道筋が示されています。著者は統合失調症の母に育てられ、いわゆる「精神障害の親を持つ子ども」として生きてきました。その過程には多くの痛みがあり、やがて成長した著者にも様々な精神的不調が表れ始めます。そしてついには2度の自殺未遂を起こすに至るのですが、それでもなお、著者は生きる道を選びました。

心病む精神科医を救ったもの

本人曰く「死にたい病」のさなかに居た著者の命を繋いだのは、本書「人は、人を浴びて人になる」に登場する様々な人との繋がりでした。章ごとに何人もの人とのエピソードが語られますが、共通するのはいずれも「普通の人」であるということ。専門家や権威のある立場ではなく、あくまでも一般人としての「普通」という意味です。

もちろん登場するのはすべてが善人というわけではなく、中には(客観的に見れば)詐欺まがいの行為を働くような人も登場します。しかし出会いによって得られた感情や記憶というものをとりわけ大切にする著者は、それすらも糧としてしまう芯の強さを見せつけてくれます。

夏苅医師は多くの人々との関わりの中から、本当に心を治すものは「薬」ではなく「人」である、と気づきます。それは決して綺麗事などではなく、根本的に人間に心理・精神を支えるものは「他者との関係」なのだということです。

NHKで放送された夏苅医師のメッセージ

2017年4月NHKEテレ内の「ハートネットTV」という番組で「精神障害の親を持つ子ども」という特集が組まれました。そしてその番組にはコメンテーターとして、また同じ境遇を持つ「子ども」として、夏苅医師の姿がありました。

番組の最後に夏苅医師は「仲間の皆さんへ」と題して、同じ境遇でサバイバルしている人々にメッセージを送りました。人に頼ることが出来ないのは、我々(精神障害の親に育てられた子ども)としては当たり前であること。けれど人間はどこかでしっかりと愛された記憶があれば、しっかりと生きていけるのだと。

患者としての立場を知る医師の希少性と重要性

夏苅医師は数多くの講演を通して、精神科医と患者との間に横たわる溝について繰り返し触れています。精神科医は学術的な理論や科学的な知識・経験則を重視するあまり、患者個人の気持ちに寄り添うことが十分に出来ていないというのです。これは夏苅医師が自身も患者としての立場を持っているからこそ得られた知見でしょう。

「転んだ痛みは転んだものにしか分からない」などと言いますが、結局のところ心の病の辛さは当事者にしかわかりません。その意味では当事者としての痛みを知る夏苅医師の存在は、現代の精神医療に置いて非常に大きな意味があるはずです。

夏苅医師の研究とその動向について

夏苅医師は現在、「医師のコミュニケーション能力に関する調査」を具体的な形で発表する準備を行っている最中です。医師の立場から医師についての調査を行うのはある意味で異例とも言えますが、今回の調査は医師関連の団体と一切の関係を持たず、高度な独立性を保った状態で行ったとのことでした。

参考文献:「人は、人を浴びて人になる」(夏苅郁子先生より引用等の許可を頂いています)